ユーザ工学入門

今回は人間中心設計。ユーザビリティという概念を具体的に実践する活動のことです。人間中心という概念は少なくとも二通りに使われています。縦軸と横軸といってもいいでしょう。


縦軸では人間を「頂点」とした生物界の階層構造を見直そうという考え方で、Lilly, J.C.のThe Dolphin in Historyとか、Cavalieri, P. and Singer, P.のThe Great Ape Project: Equality Beyond Humanityなどに著されているように、人間が自分たちを世界の中心として位置づけて驕り高ぶっているあり方に反省を迫るものです。この視点からは文明論にまで議論は発展しています。ここでは人間中心という言い方が否定的に扱われています。


これに対してユーザ工学の分野ではもっと人間のことを考え、人間のあり方を中心に据えてものづくりをしようという肯定的な意味合いで使われています。いってみれば技術中心に対する人間中心という水平軸に関するコンセプトといっていいでしょう。その意味では人間復興というスタンスに近いモノがあり、 Cooley, M..の主張する労働の非人間化に対する問題提起に近いといえるでしょう。なお、この意味での人間中心は前述の縦軸における人間中心という考え方とまったく関係がないわけではありませんが、話を簡単にするためにいちおう区別しておくことにします。


さて、人間中心設計(HCD: Human Centered (Centred) Design)という概念は、1980年代の半ば、イギリスの人間工学の大家であるShackel, B.によって提唱されました。Shackelはラフボロー大学で人間工学を教え、ユーザビリティの規格化を積極的に実行した多くの関係者を育てあげました。人間工学の父であり、ユーザビリティの父でもあります。もうかなり高齢で、先日、自宅で倒れてしまったという連絡がはいりました。その後がちょっと心配です。


もちろん、彼以前にも人間工学は活発に研究され、実践に移されていました。ただしそれまでの人間工学は、どちらかというと人間の身体的特性や生理学的特性、知覚特性などと機器との適合性を扱う、いわゆるマンマシンインタフェースの研究が中心でした。トラックから荷物を搬送するときに腰に負担を与えないにはどうしたらいいか、自動車や飛行機の計器はどうしたら瞬間的に目にはいってくるか、コックピットのデザインや監視作業の環境デザインはどうしたら人間の体の動きや視線の移動に関して最適化できるか、そうした問題を扱ってきました。1980年ごろからコンピュータという作業環境が問題になり、電磁波問題や眼疲労・眼精疲労、キーボードやマウスなどの入力装置の最適化などが扱われるようになりましたが、まだその視点は伝統的な身体・生理・知覚といった点にありました。


これに対してShackelは情報を扱う際の人間工学の問題を重視しました。要するに人間の外的な側面との最適化だけでなく、内的な側面との最適化も必要だと考えたわけです。彼のスタンスは必ずしも認知科学にあったわけではありませんが、情報技術との親和性の高い人間工学を志向した点で、従来の人間工学と一線を画したわけです。


ほぼ同じ時期、アメリカでは認知心理学者、そして認知科学者、さらには認知工学者として著名なNorman, D.がユーザ中心設計(UCD: User Centered Design)という考え方を提唱しました。視点の置き方はShackel同様、人間と情報との関わりに焦点化をしようとしたわけですが、彼の場合には認知心理学という背景があり、情報の中身と人間特性との関係の最適化を問題としたわけです。わかりやすさ、という概念が重視されるようになったのは彼の功績といえるでしょう。ちなみにNormanの方は、AppleやHPで実業の世界に入り、その後Nielsen, J.といっしょにNielsen Norman Groupというコンサルタント企業を作って実践活動に飛び込みました。


このようにイギリスとアメリカでほぼ同時に人間を中心としたものづくりが推進されるようになったこと、特に情報技術の方向付けとして人間中心という視点が重視されるようになったことで人間工学を母体としていたユーザビリティはようやく独立した活動領域として認知されるようになりました。いいかえれば、従来のものづくりにおいてはあまりにも技術中心でものごとが進められてきた、そのことに対する反省がなされた時期だったといえるでしょう。


これは想像でしかありませんが、昔々の社会においては、必要な人工物は自分たちで作っていた。あるいは身近なところにいる鍛冶屋さんに依頼したりしていたと思われます。そうした状況では、自分の欲しいものを望むような形で作ることができたはずです。ところが産業革命以降、大量生産の仕組みが形成されると、作り手と使い手が分離されることになりました。作り手は直接使い手と面会することもなくなりました。その意味ではユーザビリティに関して、一種の暗黒時代に入ったともいえるわけです。ただ、19世紀から20世紀に至る時代は技術の進歩がめざましい時期でした。人々は新たに提供される技術に驚き、その便利さに喜び、作り手と使い手の関係についての反省をすることもなく、与えられた技術成果を享受するというパターンに馴らされてしまったのです。ついには与えられたモノを選ぶか選ばないかという行為、あるいは与えられたモノの中から欲しいものを選ぶという行為をするという受動的なパターンに陥ってしまいました。情報通信技術(ICT)の進歩のめざましさは、そうした傾向をさらに増長させました。


ところが1980年代になってパソコン(や日本においては専用ワープロ)が大量に普及するようになると、その使いにくさやわかりにくさが問題になってきました。人間の特性、特に認知的な特性に関する知識や関心の少ない技術者が、自分たちの知識水準や理解力を基準にしたものづくりを推し進めた結果、一般のユーザにとってはとても扱いにくいものができてしまったのです。ユーザのことを知らない、そして知ろうともしない技術者たちがどんどんと各種の人工物を設計し製造した結果、ユーザにとってユーザビリティの低いものが溢れる結果となりました。


ここで改めて使い手と作り手の乖離が問題であることが再認識されたのです。その反省として、技術中心ではいけない、人間を中心とした設計が必要なのだと考えられた次第です。こうしたことからマニュアルの見直しやユーザビリティの活動、参加型デザインなどの動きがでてくることになります。そのあたりはまた後ほど。


(第10回・おわり)


HCD-Netで人間中心設計を学ぶ

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HCDに関する教育活動として、講演会、セミナー、ワークショップの開催、 HCDやユーザビリティの学習に適した教科書・参考書の刊行などを行っています。