ユーザ工学入門

先に特性の多様性ということについて書きましたが、今回は状況の多様性についてです。特性というものを「ユーザに係わる持続的もしくは固定的な性質」と定義するなら、状況というのは「ユーザに係わる一時的な性質」と定義することができるでしょう。要するに、「そのとき」ユーザはそのような性質をもっていたけれど、あるいはそのような性質をもつ場に置かれていたけれど、それは常にそうであるわけではない。たまたまそのときにおいてである。そのような意味合いにおいてです。


ただ、性質というとユーザに帰属するものであるというニュアンスがあるかもしれません。したがって一般的な意味合いでの状況という考え方とは若干ずれがあるかもしれません。でも、ユーザに帰属する性質もあれば、ユーザの置かれている場の性質もあるし、そのいずれもがユーザに関わりがあるという意味では「ユーザに係わる一時的な性質」という定義でもいいのかな、と考えています。


さて、そうした意味での状況というのが人工物の利用と係わる側面でどのような形を取るかを考えてみたいと思います。


(1) ユーザのおかれている社会的な状況
たとえば会社で仕事をしている時、自宅で仕事をしている時とで、同じ文書作成ソフトを使っていても、ブラウザーを使っていても、使い方には違いがありますね。前者は時間的拘束の中で、服装についてもコードが規定されている中で仕事をしている。しかし後者では時間は自由、服装についてもリラックスしている。それがユーザの緊張度に影響している可能性があります。それを覚醒水準の問題につなげてもいいでしょう。 緊張度という意味では、急いで仕事を完了しなければならないような状況、あるいは絶対に間違えることがゆるされないような状況で書類作成をしているような場合は、一時的なことではあるのですが、ユーザの緊張度に相当な影響を与えるでしょう。列車事故が発生した時の警察や消防、鉄道関係者、そして当該の列車に乗っていた人々の直面する場面などもそうした典型的状況の一つだと思います。


(2) ユーザのおかれている物理的な状況
机の前でパソコンを使っている時、喫茶店でパソコンを使っている時とでは、たとえば机の広さが違います。また、一般的に喫茶店では照明の明るさがオフィスや自宅に比べて十分ではないことがあるでしょう。その意味で、喫茶店ではパソコン利用に関して多少ストレスフルな状況にあるといえるでしょう。
また重たい荷物をもっているような時というのは物理的な状況の典型といえるでしょう。ふだんなら駅の階段をすいすいと上下できるのに、重たい荷物をもっているとそうはいかない。駅のユーザビリティを考えた場合、こうした状況の違いに対してエレベータやエスカレータのような人工物が設置してあることは移動という目標の達成にとって大変ありがたいものです。
けがをしてしまったときも物理的状況が一時的に変化しているとみなすことができるでしょう。私は右手にけがをして半月ほど左手で歯磨きからタイピングまでをしなければならなくなり、大変苦労しました。もちろんそれは身体的運動訓練が利き手ではない方の手について十分達成されていないからでもあるのですが、人工物の側でも利き手以外で簡単に操作できるようになっていれば、と考えたこともあります。利き手か非利き手かによらず、たとえば歯を磨くという目標が効果的・効率的に達成することができれば・・というようなことです。その意味では歯ブラシ以外にも歯のクリーニングという目標を達成するための手段が用意されていれば、そうした状況の変化に容易に対応できることになります。


(3) ユーザのおかれている歴史的な状況
たとえば習熟度の問題を歴史と考えることもできるでしょう。ただ、それはどちらかというと持続的な特性であり、ユーザの多様性の方に含めてもいいかな、と考えています。類似機器に対する経験の有無がユーザビリティに影響することは明らかですが、そうした歴史的な側面もユーザの多様性に含めてよいと思います。その意味では長期間の時間的ファクタの影響については基本的にユーザの多様性に含めることができ、状況の多様性に関連した歴史というのはあまり典型的なものは考えられないかもしれません。


(4) ユーザのおかれている身体・生理的な状況
妊娠している時、気分が悪くなった時、風邪で寝込んでいる時、眠くてしかたの無いとき、頭がぼーっとしてものごとをちゃんと考えられないような時、こうした生理的な状況というのは持続的な病気に起因するものでなければ、一時的な状況の多様性と考えることができるでしょう。このような時であっても人間はやるべきことはやらねばならない。二日酔いでも職場に行き、まがりなりにも仕事をしなければならない。つわりがひどくても病院に行かねばならない。電車の中で急に気分がわるくなっても次の駅まではがまんして乗っていなければならない。急に眠くなっても高速道路であればPAまではがまんして運転しなければならない。頭がぼーっとしていても、この書類だけはお昼までに作らなければならない。こうしたことは社会のインフラが人間の急速な生理的変化に適切に対応できていないから起こっているのだともいえますが、機器やシステムでサポートできる部分もあるはずです。いずれにしてもユーザの状況的多様性としてはかなり深刻な場合が発生します。


(5) ユーザのおかれている感情・情緒的な状況
人間はイライラしている時があります。悲しみに落ち込んでいる時があります。焦っている時があります。人間の感情は様々に変化します。これは前述の状況的要因によって発生させられることもありますし、ユーザの内的な事情によって生じることもあります。喜怒哀楽は人の常です。いつも平静ににこにこして適正な判断が下せるというような人はむしろ珍しいでしょう。こうした状況においても、目標達成が必要になることは多々あります。
たとえば職場というのは基本的に個人的な感情を抑えることが要求される場です。内的にさまざまな情緒的状態にあっても、それを表に出さずに目標達成をすることが求められます。また事故が発生したときのドライバーはあわててしまうのが当然ですが、それでも適切にけが人の対応や警察・消防などへの連絡をすることを義務づけられています。しかし、それって今の機器やシステムでほんとうに適切にできているのでしょうか。そのあたり、人工物設計においてはもっと考えるべきことが多数あるように思います。


これまでユーザビリティの活動では、基本的にユーザというのは安定した状況に置かれていることを想定してきました。いわば標準想定状態というようなものです。社会的にも物理的にも身体・生理的にも、そして感情・情緒的にも。しかし実際の日常生活場面では様々な状況変化があります。人間はそれを乗り越えて目標を達成していかねばならないのです。今後、ユーザビリティの活動ではそうした多様な状況を考慮して行かねばならないでしょう。人工物の設計においては、多様な状況でも適切に目標を達成できるように配慮していかねばならないでしょう。


たとえば、ユーザビリティの評価を行うためにユーザビリティテストという手法があります。詳しくは後ほど説明しますが、このテストの場面ではできるだけ参加者に心理的負担を与えないことが必要とされています。リラックスさせ、持てる能力を最大限に発揮できるような状況におかせるのです。しかし、こうした状況設定だけでテストをしてユーザビリティを云々することが適切だといえるでしょうか。事故が起きたときにつかう飛行機のライフジャケットのユーザビリティなどはその典型でしょう。このユーザビリティをノーマルな状態でテストしただけでいいのでしょうか。原子力発電所の監視制御システムをノーマルな状態でテストしただけでいいのでしょうか。もちろん、発電所では訓練をやります。皆さん真剣にやっておられます。しかし内的な緊張のレベルは実際の事故の時にははるかに高いもののはずです。車の運転でもそうです。正常な覚醒状態での運転が用意だからといって、あるいは車載機器の操作ができるからといって、疲労したときや眠たいときにも同じような操作が可能だと考えていいのでしょうか。


もちろんテスト参加者に対する侵襲性については配慮が必要です。参加者の人権を守ることも必要です。だから参加者をストレスフルな状況に追い込むのは避けるべきだ、という原則が設定されています。


しかしユーザビリティというのは多様な状況においても達成されることが必要です。状況の多様性にかかわらず目標を適切に達成できるように人工物を設計することが必要なのです。この点についての検討は、ユーザ工学ではまだまだこれからの課題である。今回はそんな現状をご紹介しました。


(第8回・おわり)


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